さよならの準備

いつかくる日のために

【読書】最も弱い者に向き合う時に世界は変わる_「弱さの思想 たそがれを抱きしめる」

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読み終わって思い出したことふたつ

1.零れ落ちた人々の行く末

人生は自分の選択の結果なので今更どうこう言っても仕方ないのだけれど、30を過ぎた今、世間でイメージされる所の「正しそうな幸福」から零れ落ちてしまった人は一体どうしたらいいんだろう…という事を、ぼんやり考える時がある。

子供が●人、いきいき働くワーキングママ、それなりの増収が見込めているからローンを組んでマンションを買って、老いた両親は清潔で信頼できる施設へ、色々あるけど健康で今日より明日が素晴らしいと疑ったことはない…みたいなやつ。もはや実現するには手遅れで、ものすごい頑張ったら出来るかもしれないけど、その元気も能力も無い。…となると、せめて自分の手の届く範囲の幸福を大事にしよう、迷惑をかけずに暮らすことを心がけて、今際の際が静かであればと思う。

世界は仕事・恋愛・家庭・収入・健康・闘病…その他諸々…において常に、間違えるな、強者になれと求めてくる。正しいことだと思う。でも今の社会でそれを実現できる人ってごく一部で、これからもっと減っていくんじゃないのかな。「頑張るから〜できる/頑張らないから〜できない」という理屈が正しかったとしても、「頑張れない」人たちを責める気になれない。

2.猫との生活

家に猫がいる。拾った当時は随分弱った子猫だった。言葉も通じないし、とにかく小さく、動きの予想がつかないので、猫を中心に家や生活が整えられていった。望んでそうしたというより、ほぼ強制的にそうせざるを得なかった。今でも自宅で暮らす上で、自分たちの好みとは別に「それなりに清潔で安全であること」は、かなり重要視されている。結果として自分達の生活に良い影響を与えていると思う。

 「あるコミュニティの中で最も弱い者」を中心にすると、世界が変わる。

***

 

「弱さの思想」

作家の高橋源一郎さんと文化人類学者の辻信一さんの対談集。様々な「弱さ」に重きを置いた取り組みが社会に影響を与えていく事例を語り合っている。

  • 精神障がいを持つ人達の自助コミュニティ「べてるの家
  • イギリスの子供ホスピス「マーティンハウス」
  • 大きな精神病院が街の中心となったオランダの「フェルトワイク」
  • 利用者とスタッフの間の境界線が限りなく薄い宅老所「井戸端げんき」

などなど…。どのコミュニティも強者である事より「ありのままの姿で、人生を続けていく」方法を模索している。

心に残ったのは「その場で最も弱いもの」が周囲に与える影響について。

死んでいく子どもの前では、大声でどなったり、自己中心的なことを言ったり、聞きかじりのことを言ったり、くだらない噂話なんてできないでしょう。

一番弱いところに向けて考えられた施設や社会的取り組みが、「世の中全体がこうだったらいいのに」と思わせる構造になっている事も書かれていた。

本書で繰り返し語られるのは、

  • 勝者が生まれると同時に、その周りには複数の敗者(弱者)が生まれていること
  • 弱者側に置かれる人が増え続けていく今この時代に、「勝ち負けで言えば勝ちが善/強者弱者でいえば強者が善」の思い込みをいつまで大事にしているんだろう?
  • せめて「よりマシな負け方」が、もっと言うなら「勝ちもせず負けもしない」場があってほしい
  • 理想としては「戦わなくてもいい社会」に着陸する方法があってもいいのでは?

というようなこと。あらたな社会のあり方、「弱さの価値」や捉え方を幾度も提案してくる本だった。

すごく現代的だと思う。「二項対立から降りたい」「負けるにしても良い負け方を模索したい」って思う背景には、ここから状況が良くなる事はないだろうという諦念がある。勝ちたいと思える段階にいる時はまだ、夢や希望があるのかも。ここでまた、本文中に出てきた「敗北力の無さ(現状を認識する力の弱さみたいなニュアンスかな)」という言葉に繋がっていく。その原因って

いつも「正しく」ありたいという、自分で作った偏見にとらわれているんじゃないかって。

 この言葉に集約されていくように思いました。

【読書】もっと老人を面白がっていい「老人介護/じいさん・ばあさんの愛し方」

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後悔しているお別れ

すごーく若いときの思い出で、お別れが近づいてきた相手の存在感や身体上の不自由を、必要以上に恐れてしまった事がある。

当時私は「いよいよお迎えが近いんだぞ」という人物と相対すること自体がはじめてで、彼が元気で健康だった時の印象のまま会いに行き、案の定衝撃を受け、折角の面会時間に上手く話せず…それが最後の面会になってしまった。何も言えなかった自分に驚いたし、いやあれは自分が幼かっただけだと思うけれど、ふと不安になったりもする。

会話が上手くできないこと(極端に声が大きかったり、聞こえなかったり、会話の内容だったり)、食事が上手にとれないこと、涎や体の匂い…今まで知っていたのとはまるで違う人物のように感じてしまったこと。

なぜあの時あんな風な態度を取ってしまったんだろう。例えばその相手が親だったら?いずれ自分が主介護者の立場になったとして、未来の両親の事も同じように恐れてしまうだろうか?老いた相手と今までと同じように付き合えるのかな?今でも自信が持てないでいるんだった。

 

老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた (新潮文庫)

老人介護 じいさん・ばあさんの愛しかた (新潮文庫)

 

三好春樹さんについて

著者は「生活とリハビリ研究所」の代表三好春樹さん。

三好 春樹(みよし はるき、1950年- )は、広島県生まれの介護、リハビリテーション理学療法士)の専門家。生活とリハビリ研究所代表。「オムツ外し学会」や「チューブ外し学会」を立ちあげて介護、看護、リハビリの枠を超えて日本全国で 「生活リハビリ講座」を開催し、介護に当たる人たちに人間性を重視した老人介護のあり方を伝えている。(三好春樹 - Wikipedia

学生運動を主導した余波から高校を退学となり、いくつかの職を経て介護職に就いたところからストーリーは始まっていて、三好さんの職業人生と共に出会ってきた愛すべき「じいさん・ばあさん」達を章立てて紹介している。

老人を「面白がるため」の本

あくまでエッセイなので、専門書ほどではないのだろうけれど、エピソード中に介護での大切なポイントや、病院と施設の違いなども添えられている。でもそれは、あくまでも副次的な要素であって、基本的には「じいさん・ばあさんを(語弊があるけど)面白がるため」に書かれていると感じました。

個性が「煮詰まった」老人たち

登場するのは強烈な個性や面倒臭さを持った人ばかり。お嬢様育ちのまま老女になった岡田さん、ヤクザ映画よろしく広島弁で怒鳴り散らす森田さん、終戦後一度も風呂に入っていないという竹之内さん…どの人も身体的には不自由があっても、精神的にはとても自由なふるまい、他人からどう思われるかなんて些事からはとうに脱している。腹も立ちそうなものだけれど、三好さんは彼らの「可愛げ」や「彼らなりの理屈」も書き出している。

なかでも前述の問題行動の多い「森田さん」が、懇切丁寧にお世話をする職員さんよりも、時に彼を怒鳴り返し、挑発したりからかったりもする看護師さんに心を開いていく様子に腑に落ちるものがあった。

私はこの過程を見ていて思った。まごころ、なんてものは通じない、と。いや、正確にはこういうべきかもしれない。本当のまごころが相手に通じるということは、とてもきれいごとじゃないんだ、と。

老いの不自由から涙にくれて、施設関係者のまごころに感謝する可愛そうな老人なんていうのはある意味こちらの勝手な老人像であって、それを押し付けられるのが彼らには一番腹立たしい。面白がられたって構わないし、腹が立ったら怒っていい、皆そのままの付き合いを望んでいるんだよな。

この本を読んで、「介護は重く、常にまじめに(?)向き合うもの」「人生の締めくくりを第三者が抱える一大事」という思い込みが溶けた。というか、確かにある一面ではそうなんだけど、色んな瞬間があり、自分の思う向き合い方をしても構わない。という発見が出来たのが、自分の中では本当に大きなことでした。

三好春樹さんの本、読んでいきたいな~と思っています。

【読書】小さな棘を徹底的に取り除けば世界は変わる_「小さないじわるを消すだけで」

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怒りや悲しみを手放すこと、人をゆるすこと

「感情を清算する事」や「他者をゆるす方法」に興味がある。清算できていないから、ゆるせていないからこそ興味があるんだと思っていて、その自覚もある。

私は結婚と加齢によって心の起伏や生活が穏やかになったと感じていて。行き先不明のジェットコースターから市営バスに乗り換えた感じ。*1この選択は自分の人生で最も幸運な事だと思っています。

でも今、その市営バスの後部座席から後ろを振り返る。今まで通ってきた道のりや景色が見える。近年は楽しい事や嬉しい事が沢山あったけど、それよりもっと昔に起きた理不尽な事、間違った選択、たくさんの恥、ゆるせない嘘、悲しいお別れに心がフォーカスしてしまう。もう終わった事で、思い出したくないのに、どうしても考えてしまう

生きていれば誰しも毎日色々あるわけで、そのまま忘れてバスの旅を楽しんだらいいのですが、なかなか上手くいかない。自分の性格や、生きる知識・知恵の少なさ、自尊心の低さ、トラウマがもつれあって新たな執着を生み出しているような気もします。過去の夢も頻繁に見るんですよね。

反射で漏らすひと

いきなりトイレの話で申し訳ないんですが、「日常的にお風呂で小をする習慣があると、いざボケた時に、介助者さんにお風呂にいれてもらう(=お湯をかけてもらうと)、反射でもらしてしまう」という話をインターネットで読んだんです。*2

わかりますか。これはまずいぞ、と思ったんです。お風呂で小はしてないですけど!わかってもらえるはず…!

 「このまま日常的に過去の妄執に囚われていると、いざボケた時に、病んでいた時点に戻ってしまう、最悪の老人になるのではないか」

やばい、絶対にもらしたくない…(?)。一刻もはやく清算せねば…。というのが、最近の読書のテーマの一つです。

 ***

 「小さないじわるを消すだけで」

 2014年に京都精華大学主催の講演会「世界を自由にするための方法~宗教家と芸術家の視点から~」で行われた、ダライ・ラマ14世(宗教家)とよしもとばなな(作家・現在は苗字が漢字表記)の対談を収録したものになります。

本書の構成は

の4章に分かれています。新書サイズの短い本で、読書が趣味の方なら2時間もかからず読めると思います。私も寝る前の一冊として読みました。

全文がインターネットで読めるのでぜひどうぞ

実はこのスピーチと対談、インターネットで全文読むことが出来ます。なんならこの特設ページのほうが全録動画もあり個別インタビューもあって充実しているくらいです。後から気付いてオオっと思ったけど、でも買ってよかったなと思ってます。ブックデザインに余白があって、ふたりの穏やかさと強い意志が伝わるし、カバーのすべすべの手触りも気に入っています。

よしもとばなな先生のスピーチ

心に残ったのは最初の章。よしもと先生は「自分は書くプロであっても、話すプロではないから」と、書いてきた原稿を朗読するのですが、そこでお話されたのが、タイトルにもなった「小さないじわる」について。彼女はこの世で起きるよくない事(レイプ、殺人、あらゆる犯罪、戦争など)すべての始まりは、この「小さないじわる」からではないかと語りかけます。

例えば誰かが失恋したとする。その人が甘えた気持ちで子供のようになんとなく自分の近くに来て、なにか声をかけてほしそうにする。あるいは話しはじめたらきっと2時間聞かされるだろうなと思う様子をしている。その雰囲気を見ただけで、なんとなく前もって「今日は忙しいな」といってみたり、目を合わせなかったり。たいしたことではないけれど、そこにはたしかに意図があります。

11月24日講演レポート │ ダライ・ラマ14世講演会記録

どきりとしました。心当たりがあるから。出来たはずなのにしなかったこと。自分のゆとりの無さを言い訳に棚上げしてきた沢山のこと。相手のちょっとした落ち度を何倍にも増幅して、自分には関係ないことのような顔をして。あるいはこれは自己防衛なんだと正当化して…。

  • 話を聞いてほしい相手を素っ気無くあしらったり
  • 電車で熟睡のあまり、もたれかかって来た人に嫌な顔をしたり
  • インターネットの炎上に溜飲を下げたり
  • 仕事のちょっとしたお願いを、恩着せがましく聞いてあげたり
  • 喧嘩の翌日のあいさつに聞こえないふりをしたり

いくらかでも優しくできた、それが無理でもせめて傷付けない方法があったはずなのに、そうしなかったのは、確かに意図があるから。

私がどうしてそれを良くないと思ったか。突き詰めて考えてみて、結論が出ました。それは“小さな意地悪”には責任が伴わないからです。大きな犯罪、他者への攻撃、殺人、レイプ、戦争。そういう大きなことは、人類の愛ある存続にとって最も良くないことですが、そこにははじめた人の責任も確かに芽生えます。“小さな意地悪”は匿名性があり、日常的には他者も自分も著しく害するものだと思うのです。

11月24日講演レポート │ ダライ・ラマ14世講演会記録

無意識と呼べるほど気軽に「小さないじわる」をしてしまうのは、責任が伴わないからなんですよね…顔を覆いたくなってきた。

過去の炎上と「小さないじわる」を付け合せてみる

過去によしもと先生は、「居酒屋でワインの持ち込み」や「タトゥーの入った友人と銭湯に行きトラブルになった」体験に「確かに自分が悪かったが、こんな風に怒られたり、ないがしろにされるのはおかしい」という趣旨のエッセイを書いて何度か炎上したのですが、ここでもまた、そういった種類のエピソードを、一つ打ち明けます。

是非本文を読んでほしいのですが、これもまた見方によっては炎上しそうな話です。よしもとばななさん、社会のルールより個人の在り方や向き合いを重視していらっしゃるから、定期的に怒られる人なのかも…。でも憎めない、羨ましいくらい。

それに、このスピーチを踏まえると、彼女が自身に落ち度がある(と本人も認めていて、その点については謝罪も反省もしている)ことに、何故こんなに怒り悲しむのか、という疑問が、「他者も自分も著しく害する」「意図のある小さないじわる」だから、というのが理解できる気がします。

仕事への強い義務感と正当的な理由づけとストレスが悪い具合にブレンドされてしまうと、その場でできることのなかで、人をできるかぎり小さくではあるが、あえて傷つけながら、自分が論理的にも倫理的にも正当化できるやり方をして、ストレスを発散してしまう。

11月24日講演レポート │ ダライ・ラマ14世講演会記録

間違った事をした自分自身に向けられた正当な指摘と、「小さないじわる」に含まれた意図を、それぞれ分けて受け止める、そして「小さないじわる」に対して怒りや悲しみを表明するというのは本当に難しい。でもここまで卑近な問題からはじめるんだ、という意思がある。なかなか理解されないと思うし、人によっては図々しく映るようにも思います。でもこうやって分離して捉えるからこそ、自身の中に恨みつらみを残さないのかな。とも思いました。

 

*1:とはいえ人生なので、これから何が起きるかはわからない!

*2:多分はてブで見かけたと思うんですけど…見つからない…

【読書】命に関わる悪い報せをどう伝え、医療者としてどう向き合うのか_「死にゆく患者(ひと)と、どう話すか」

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困難を前にした人に絶句するだけの自分

身近な人が病に倒れたとき。回復のきざしが見られない時。困難の最中にいるその人と、どうやって日々の会話をするだろう?心からの「つらい」や「しんどい」訴えに、何も言うことが出来ずに沈黙してしまうか、逆に言わなくてもいいような事、デリカシーのない事を沢山喋って空回りしてしまう…という想像をよくします。普段からコミュニケーションがうまくいっていない相手(自分の父親とか…まだ元気だからいいけど)の介護をイメージすると余計心配なんだよな。

<目次>

死にゆく患者(ひと)と、どう話すか

死にゆく患者(ひと)と、どう話すか

死にゆく患者(ひと)と、どう話すか

 

 日赤看護大学での「コミュニケーション論」での講義録を書籍化した、医学書院の「死にゆく患者(ひと)と、どう話すか」を読みました。専門用語も多いけれど、医療関係者じゃない人でもちゃんと理解して読める本です。一晩で読みきってしまった。

著者は國頭英夫先生。国立癌研究センター等を経て日本赤十字社医療センター化学療法科部長現職。里見清一名義での小説や、フジテレビの医療ドラマ「白い巨塔(平成版)」「コード・ブルー」の監修なども。

どの回もかなり踏み込んだ講義

  • がんの告知をどのようににするか(場所・タイミング・家族や看護師の同席の有無)
  • (患者の知識は医師と同等にはなりえないのに)何がインフォームドコンセントか?
  • DNR(Do Not Resuscitateの略・回復が不能な状態になったとき、蘇生措置しない許可)オーダーをいつ取るべきか、「いよいよの時」に「自分が殺したのではないだろうか」と患者家族の負担を増やすだけではないのか?

等など、大学一年生の授業としてはかなり濃く重い。「死にゆく患者とどう話すか?」というレポートのテーマもかなり難しい。正解を定義できないことですもんね。それでも國頭先生は「こうするんだ(こうしてきたんだ)」という答えを一度は提示し、生徒達にも同様に答えを出すことを求めている。それは彼女達がプロになっていく過程で必要なことでもあり、戸惑いながらも答えを探していく彼女達を見守る優しさ(面白がり?)みたいなのも感じられる。

本作では國頭先生が実際に監修したドラマでの告知シーンを実際に再生しながら講義を進める場面も多く、それほど丁寧に作られているんだと驚きがあった。当時見ていたはずだけど、「白い巨塔」本当に良かったもんな…。久しぶりに見たらちょっと泣いてしまう。

www.youtube.com

(このシーン、里見のトーン、レントゲンの位置、患者に喋らせるところ、泣かせてあげるところ、受け止め方、告知としてはかなり良いものだそうです。)

やるべき事がなくなったとしても

最も心に残ったのは、國頭先生がいちばんきついと言った「積極的治療の中止」を告げる際のエピソード。手術や投薬で医者と患者が「共に戦っている」時はまだいいが、積極的治療を「もうやるべきではない」と言うべき時が必ずくる。

「その時患者さんは、医者だけがいきなりいち抜けたで戦線離脱するように感じるだろう」

と語っておられること。緩和ケア・ターミナルケアのことを想像したことはあっても、その導入にまで思いを馳せたことがなかったので、ぐっと重い気持ちになった。いよいよ「その時」を待つだけになるのか…という現実、私が家族だったら早々受け入れられないかもしれない…。でも医療者は移行すべきだと言う、きっと解ってはいても、せめぎあいになるだろうな。

医療者達は、患者や家族の落胆や絶望を受け止めつつ、緩和ケア・ターミナルケアに移行する、それに大きな意義があると伝えなくてはならない「これで終わりではないのだ」「やることはまだまだ沢山あるのだ」と熱っぽく語る様は愛の言葉のよう。死を介して人間同士が向き合う時、見送る側の人間は本当に裸になる。語ろうとすればその人の本質が暴かれるし、あえて語らない選択をするときでさえ、状況を「引き受ける」覚悟が求められるんだな~としみじみ感じ入りました。

さよならの準備(自己紹介みたいなもの)

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前提があるほうがいいかなと思ったので書きます。

■自分のこと

  • 30代女性
  • 夫と猫の3人暮らしで、共働き
  • 義理の母と二世帯同居、義理父は6年ほど前に倒れ介護施設
  • 私の両親は遠方に住んでいて、どちらも健在です。

■このブログを始めようと思ったきっかけ

数年前に結婚し、日々暮らしていく中で、人生を長いタームで捉えることが多くなりました。そこから漠然と「死」にまつわることを考える時間が長くなりました。

夫、愛猫、両親、きょうだい、義両親、友人、そして自分…。

対象が誰あっても、死の気配が現実的として近づいて来た時、私はきっと取り乱してしまうだろうと思います。今ここで「死」とタイプするとき「介護を経て老衰で…」という一般的な(?)死をイメージしているけど、それが出来るのは一部の幸運な人だけなのではないか?とも思っています。

なにか現実的な問題に直面する前に、少しでも心の準備が出来たらと考えています。心の中で選択肢を増やしておきたいというか。未知の事だからこそ、こうやって意識して調べたり記録したりすることで、受容できるようになるのか?(受容できたとしてそれは良いことなのか?)という事も知れたらな。 

■ブログで書きたいもの

  • 自身や他人の老いへの受容
  • 感情の清算老いた時に過去のことに苦しみたくないから)
  • ペットとのお別れ(絶対耐えられないので心の準備)
  • 仏具仏壇(インテリアが好きなので)
  • 身寄りがない人が1人で死ぬ時の物理的な準備(?)

みたいな話を書く気がします。「身寄りがない人が1人で死ぬ時の物理的な準備」というのは、自分が運悪く(?)一番最後に死ぬタイプなのではないか?と思っていて…書きたい事というより知りたいこと。日記的なものも書きつつマイペースにやってこうと思ってます。よろしくお願いします。

連絡先は/s_y_n_r_no_jnb-00▲yahoo.co.jp(▲→@)