さよならの準備

いつかくる日のために

【読書】小さな棘を徹底的に取り除けば世界は変わる_「小さないじわるを消すだけで」

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怒りや悲しみを手放すこと、人をゆるすこと

「感情を清算する事」や「他者をゆるす方法」に興味がある。清算できていないから、ゆるせていないからこそ興味があるんだと思っていて、その自覚もある。

私は結婚と加齢によって心の起伏や生活が穏やかになったと感じていて。行き先不明のジェットコースターから市営バスに乗り換えた感じ。*1この選択は自分の人生で最も幸運な事だと思っています。

でも今、その市営バスの後部座席から後ろを振り返る。今まで通ってきた道のりや景色が見える。近年は楽しい事や嬉しい事が沢山あったけど、それよりもっと昔に起きた理不尽な事、間違った選択、たくさんの恥、ゆるせない嘘、悲しいお別れに心がフォーカスしてしまう。もう終わった事で、思い出したくないのに、どうしても考えてしまう

生きていれば誰しも毎日色々あるわけで、そのまま忘れてバスの旅を楽しんだらいいのですが、なかなか上手くいかない。自分の性格や、生きる知識・知恵の少なさ、自尊心の低さ、トラウマがもつれあって新たな執着を生み出しているような気もします。過去の夢も頻繁に見るんですよね。

反射で漏らすひと

いきなりトイレの話で申し訳ないんですが、「日常的にお風呂で小をする習慣があると、いざボケた時に、介助者さんにお風呂にいれてもらう(=お湯をかけてもらうと)、反射でもらしてしまう」という話をインターネットで読んだんです。*2

わかりますか。これはまずいぞ、と思ったんです。お風呂で小はしてないですけど!わかってもらえるはず…!

 「このまま日常的に過去の妄執に囚われていると、いざボケた時に、病んでいた時点に戻ってしまう、最悪の老人になるのではないか」

やばい、絶対にもらしたくない…(?)。一刻もはやく清算せねば…。というのが、最近の読書のテーマの一つです。

 ***

 「小さないじわるを消すだけで」

 2014年に京都精華大学主催の講演会「世界を自由にするための方法~宗教家と芸術家の視点から~」で行われた、ダライ・ラマ14世(宗教家)とよしもとばなな(作家・現在は苗字が漢字表記)の対談を収録したものになります。

本書の構成は

の4章に分かれています。新書サイズの短い本で、読書が趣味の方なら2時間もかからず読めると思います。私も寝る前の一冊として読みました。

全文がインターネットで読めるのでぜひどうぞ

実はこのスピーチと対談、インターネットで全文読むことが出来ます。なんならこの特設ページのほうが全録動画もあり個別インタビューもあって充実しているくらいです。後から気付いてオオっと思ったけど、でも買ってよかったなと思ってます。ブックデザインに余白があって、ふたりの穏やかさと強い意志が伝わるし、カバーのすべすべの手触りも気に入っています。

よしもとばなな先生のスピーチ

心に残ったのは最初の章。よしもと先生は「自分は書くプロであっても、話すプロではないから」と、書いてきた原稿を朗読するのですが、そこでお話されたのが、タイトルにもなった「小さないじわる」について。彼女はこの世で起きるよくない事(レイプ、殺人、あらゆる犯罪、戦争など)すべての始まりは、この「小さないじわる」からではないかと語りかけます。

例えば誰かが失恋したとする。その人が甘えた気持ちで子供のようになんとなく自分の近くに来て、なにか声をかけてほしそうにする。あるいは話しはじめたらきっと2時間聞かされるだろうなと思う様子をしている。その雰囲気を見ただけで、なんとなく前もって「今日は忙しいな」といってみたり、目を合わせなかったり。たいしたことではないけれど、そこにはたしかに意図があります。

11月24日講演レポート │ ダライ・ラマ14世講演会記録

どきりとしました。心当たりがあるから。出来たはずなのにしなかったこと。自分のゆとりの無さを言い訳に棚上げしてきた沢山のこと。相手のちょっとした落ち度を何倍にも増幅して、自分には関係ないことのような顔をして。あるいはこれは自己防衛なんだと正当化して…。

  • 話を聞いてほしい相手を素っ気無くあしらったり
  • 電車で熟睡のあまり、もたれかかって来た人に嫌な顔をしたり
  • インターネットの炎上に溜飲を下げたり
  • 仕事のちょっとしたお願いを、恩着せがましく聞いてあげたり
  • 喧嘩の翌日のあいさつに聞こえないふりをしたり

いくらかでも優しくできた、それが無理でもせめて傷付けない方法があったはずなのに、そうしなかったのは、確かに意図があるから。

私がどうしてそれを良くないと思ったか。突き詰めて考えてみて、結論が出ました。それは“小さな意地悪”には責任が伴わないからです。大きな犯罪、他者への攻撃、殺人、レイプ、戦争。そういう大きなことは、人類の愛ある存続にとって最も良くないことですが、そこにははじめた人の責任も確かに芽生えます。“小さな意地悪”は匿名性があり、日常的には他者も自分も著しく害するものだと思うのです。

11月24日講演レポート │ ダライ・ラマ14世講演会記録

無意識と呼べるほど気軽に「小さないじわる」をしてしまうのは、責任が伴わないからなんですよね…顔を覆いたくなってきた。

過去の炎上と「小さないじわる」を付け合せてみる

過去によしもと先生は、「居酒屋でワインの持ち込み」や「タトゥーの入った友人と銭湯に行きトラブルになった」体験に「確かに自分が悪かったが、こんな風に怒られたり、ないがしろにされるのはおかしい」という趣旨のエッセイを書いて何度か炎上したのですが、ここでもまた、そういった種類のエピソードを、一つ打ち明けます。

是非本文を読んでほしいのですが、これもまた見方によっては炎上しそうな話です。よしもとばななさん、社会のルールより個人の在り方や向き合いを重視していらっしゃるから、定期的に怒られる人なのかも…。でも憎めない、羨ましいくらい。

それに、このスピーチを踏まえると、彼女が自身に落ち度がある(と本人も認めていて、その点については謝罪も反省もしている)ことに、何故こんなに怒り悲しむのか、という疑問が、「他者も自分も著しく害する」「意図のある小さないじわる」だから、というのが理解できる気がします。

仕事への強い義務感と正当的な理由づけとストレスが悪い具合にブレンドされてしまうと、その場でできることのなかで、人をできるかぎり小さくではあるが、あえて傷つけながら、自分が論理的にも倫理的にも正当化できるやり方をして、ストレスを発散してしまう。

11月24日講演レポート │ ダライ・ラマ14世講演会記録

間違った事をした自分自身に向けられた正当な指摘と、「小さないじわる」に含まれた意図を、それぞれ分けて受け止める、そして「小さないじわる」に対して怒りや悲しみを表明するというのは本当に難しい。でもここまで卑近な問題からはじめるんだ、という意思がある。なかなか理解されないと思うし、人によっては図々しく映るようにも思います。でもこうやって分離して捉えるからこそ、自身の中に恨みつらみを残さないのかな。とも思いました。

 

*1:とはいえ人生なので、これから何が起きるかはわからない!

*2:多分はてブで見かけたと思うんですけど…見つからない…